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大分のニュース
10月17日(金) のニュース
2025年10月17日(金) 19:56
「トンちゃん」の愛称で親しまれた村山富市元総理が死去 老衰のため大分市内で
トンちゃんの愛称で親しまれた村山富市元総理が17日午前、大分市内の病院で老衰のため亡くなりました。101歳でした。
■「うちの近所だったんですよ。優しくしてもらったんですよ」
■「(総理在任中)阪神淡路大震災とサリン事件があったのが大変だったと思います」
■立憲民主党 吉田忠智参院議員:
「戦後50年談話、被爆者援護法の制定、アジア助成基金、水俣病の解決に向けた前進。地方分権に関わる法律の制定など多くの成果を上げられた。一番心に残っているのは『大衆とともに大衆に学ぶ』という言葉です」
大分市で生まれた村山元総理は、地方議員を経て1972年の衆議院選挙で旧社会党から出馬し初当選しました。
1994年6月には自民党、旧さきがけと連立政権を組み大分県初の総理大臣に就任。
2000年に政界を引退しました。
2024年3月には100歳の誕生日を迎え、明治大学の校友会が大分市内の自宅にお祝いに訪れていました。
通夜・告別式は家族のみで執り行い、後日、お別れの会を予定しているということです。
(石井キャスター)
まさに今、連立の協議が行われる中、大分県出身の村山富市元総理が亡くなられました。
(平井アナ)
長い眉毛で親しまれた村山富市さんは、1994年6月、自民党、社会党、新党さきがけによる3党連立政権で第81代内閣総理大臣指名されます。大分県出身者としては初。社会党委員長として総理の座につくことになります。
在任中には、1995年1月に阪神淡路大震災。1995年3月には地下サリン事件が起きました。
日米安保の堅持、自衛隊合憲など、社会党の方針を大きく転換させるなど総理として激動の時代を過ごしました。
2000年に政界を引退した以降は、地元大分に帰ってこられました。総理大臣を経験された後も、親しまれた人柄から愛されました。
取材をしてみると、「気さくで優しい。固くならず近所のおじいちゃんって感じ。寂しいですよね」
「散歩中に会ったら、いつでも声をかけてくれた」
「政治に関してお金にきれいな人だった。なので今の政治のお金に関しては、どう思っているだろうか」といった声が聞かれました。
■「うちの近所だったんですよ。優しくしてもらったんですよ」
■「(総理在任中)阪神淡路大震災とサリン事件があったのが大変だったと思います」
■立憲民主党 吉田忠智参院議員:
「戦後50年談話、被爆者援護法の制定、アジア助成基金、水俣病の解決に向けた前進。地方分権に関わる法律の制定など多くの成果を上げられた。一番心に残っているのは『大衆とともに大衆に学ぶ』という言葉です」
大分市で生まれた村山元総理は、地方議員を経て1972年の衆議院選挙で旧社会党から出馬し初当選しました。
1994年6月には自民党、旧さきがけと連立政権を組み大分県初の総理大臣に就任。
2000年に政界を引退しました。
2024年3月には100歳の誕生日を迎え、明治大学の校友会が大分市内の自宅にお祝いに訪れていました。
通夜・告別式は家族のみで執り行い、後日、お別れの会を予定しているということです。
(石井キャスター)
まさに今、連立の協議が行われる中、大分県出身の村山富市元総理が亡くなられました。
(平井アナ)
長い眉毛で親しまれた村山富市さんは、1994年6月、自民党、社会党、新党さきがけによる3党連立政権で第81代内閣総理大臣指名されます。大分県出身者としては初。社会党委員長として総理の座につくことになります。
在任中には、1995年1月に阪神淡路大震災。1995年3月には地下サリン事件が起きました。
日米安保の堅持、自衛隊合憲など、社会党の方針を大きく転換させるなど総理として激動の時代を過ごしました。
2000年に政界を引退した以降は、地元大分に帰ってこられました。総理大臣を経験された後も、親しまれた人柄から愛されました。
取材をしてみると、「気さくで優しい。固くならず近所のおじいちゃんって感じ。寂しいですよね」
「散歩中に会ったら、いつでも声をかけてくれた」
「政治に関してお金にきれいな人だった。なので今の政治のお金に関しては、どう思っているだろうか」といった声が聞かれました。