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2010.01.23放送
黒田官兵衛と中津城
中津ゆかりの戦国武将、黒田官兵衛(くろだかんべえ)。太閤・豊臣秀吉による九州平定の先発隊として活躍した官兵衛は、1588年に統治の拠点となる中津城の建築を開始します。そして、山国川の河口を巧みに利用した天然の要塞を築きあげたのです。
その黒田官兵衛をモチーフにしたキャラクターがいま人気を集めているそうなので、JR中津駅に行ってみました。すると、真っ赤なお茶碗をひっくり返したような、愛らしいキャラクターが!その名は、「あ!官兵衛」。舌を出した姿がかわいらしい、中津生まれの「ゆるキャラ」です。様々なグッズも販売されていて、知名度が次第にアップしてきたそう♪
そんな姿とは裏腹に、この赤い体は、実は官兵衛が戦場で身に着けていた「赤合子形兜(あかごうすなりかぶと)」をイメージしたもの。敵陣はこの赤い兜を見ると震えあがったという言い伝えがあるほど、官兵衛は恐れ多い存在だったそうです。
黒田官兵衛は、姫路に生まれ、若い頃は織田信長に仕えようとしていましたが、「豊臣秀吉の世話をせよ」と命じられ、秀吉の参謀として頭角を現すようになります。信長が明智光秀に裏切られたときに、秀吉に光秀を討つよう進言したのも官兵衛だと言われています。秀吉の天下統一は官兵衛なしには成し得なかったかもしれないですよね。
そして、秀吉による九州平定で活躍した官兵衛は、豊前六郡を与えられ、中津城の建築を開始。しかし、中津を統治するのは容易ではなく、豪族との争いでたびたび苦労を強いられたといいます。官兵衛ゆかりのお寺・合元(ごうがん)寺。姫路から住職共々中津に持ってきたお寺です。官兵衛が前領主の宇都宮氏を殺害したため、その家来たちが寺に立てこもりました。両軍による切り合いが始まり、その返り血が壁を赤く染めました。宇都宮軍は全滅し、壁は白く塗り替えられましたが、何度塗っても赤い血の色がにじみ出てくるため、壁は真っ赤に塗りかえられたという伝説が残っています。
続いては、かつて彼が居住していた中津城へ行ってみることに。天守閣や櫓は昭和時代に建てられたものですが、石垣とお堀は当時のままです。平地に立つ中津城は敵に攻められやすいため、官兵衛は山国川の河口を巧みに利用。城の周辺を水で囲み、すり鉢状にして守りがしっかりした城を築いたのです。石垣は、当時最も優れていたといわれる穴太積みで、大きな石がしっかりと組まれていて、頑丈で美しい姿を残しています。
その後、官兵衛と息子の長政は、筑前52万石を与えられ、中津を去ります。関ヶ原の戦いの際も、自ら財産を投げ打って浪人を集め軍勢を作るなど、知恵袋ぶりを発揮。まさに「戦国時代の名軍師」と呼ぶにふさわしい武将だったといえます。400年前は目立たない町であった中津に城下町を作り発展していったのは、官兵衛の功績があったからこそ。中津の人々にとって、官兵衛は誇りなのです。