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2011.03.26放送
美しい心の歌~徳田白楊~
わずか21歳の若さでこの世を去った天才歌人・徳田白楊(とくだはくよう)。過酷な闘病生活を続けながら創作に励み、アララギ派の歌壇に認められた人物です。今週は、この徳田白楊の生涯に迫ります。
明治44年、歌人・徳田白楊は、森下虎三郎の次男として、豊後大野市緒方町に生まれました。山に囲まれ、のどかな田園風景が広がる地区で伸び伸びと育った白楊。頭が良く、先生から「上緒方聖人」とあだ名が付けられるほどだった一方、茶目っ気たっぷりで元気な少年でもありました。生家は現在記念館となっていて、白楊が過ごした日々が覗えます。
病弱だった白楊は、家の周りに広がる自然を感じながら成長し、その心情を短歌で表現する楽しみを覚えます。無垢で率直な歌が多く、自然や家族、故郷について詠んだ誰にでも分かりやすいところが特徴です。
昭和2年、16歳になった白楊は、肋膜炎を発病。長い間休学することを余儀なくされますが、その病床でも短歌を描き続けていました。そして、最愛の母を亡くします。その悲しみは、彼の日記に克明に記されていました。彼の書き手としての本能なのでしょうか、臨終の瞬間を客観的に綴っています。しかし、悲しみと寂しさ、空虚感が、「ああ…」という文字の書き方からものすごく伝わってきました。
昭和4年、やや健康を回復した白楊は、竹田の教会で洗礼を受けキリスト教に入信。学校にも再び通うようになります。そんなある日、白楊は当時アララギ派の歌人として活躍していた人物と運命的な出会いを果たし、その才能を開花させることになります。当時の大分新聞に歌を投稿したところ、選者であった土屋文明が目を留めました。白楊が思い病気であることを知ると一気に30首を掲載し、新聞は「宝玉的天才歌人現る」と報じました。
土屋文明に才能を認められた白楊。しかし、幸せな時はそう長くは続きませんでした。19歳になった白楊は病状が悪化し、腎臓を摘出。さらには丹毒にかかり、危篤に陥ってしまいます。晩年3年間は痔ろうも発症し、悲惨な状況だったといいます。その時に詠んだ歌が、「新しき命求めて生きてゆかむ これのねがひをかなへさせ給へ」です。
昭和8年1月19日午後8時35分。白楊は闘病生活の末、21歳の若さで亡くなります。美しい心の歌を多く残しながら、限られた時間を全力で駆け抜けた人生でした。