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2009.03.07放送
子どもと共に笑い、泣き、怒る〜後藤楢根〜
子どもたちと同じ気持ちになって笑い、泣いて、怒る…。そんな童話作家が由布市挾間町にいました。日本の児童文学の礎を築いた、後藤楢根(ごとうならね)です。
明治41年、農業を営んでいた二宮家の10人兄弟の五男として生まれ、小さい頃は「泣き根」というあだ名がついていたほどの泣き虫だった楢根。兄弟には全員、楢の字がついているのは、子宝に恵まれなかった両親が大分市の楢神社にお参りをしたところ、子どもができたからなんだそう。
挟間小学校高等科へ進んだ楢根は、作文の授業で詩の面白さを初めて知ります。担任は、作文教育に熱心だった、大神晃憲(おおがこうけん)先生。当時、模範となる文章を真似するだけだった作文を、大神先生は、「自分の見たまま、感じたままを書いていい」と新しいやり方で授業を展開。さらに、先生の教え子の松前治作(まつまえじさく)にも学び、童謡や童話に関心を深めていきます。大分新聞にも度々投稿し、腕を磨いていきました。
昭和2年、楢根は地元の童謡作家に呼びかけて、月刊「童謡詩人」を発行。第一、二号は大分のみの発刊でしたが、その後は全国で売られるようになり、活動を広げていきます。有名な童謡作家が大分に集まり「日本の童謡壇が大分に移った」と言われるほどに。
昭和3年、師範学校を卒業した楢根は、小学校の教師として着任します。彼のモットーは、「子どもと共に笑い、泣き、怒る」でした。子どもは一人ひとり違った心を持っているので、童謡や童話を通じて、子どもの心を豊かにしたいと願ったのです。
そんな楢根の思いを今に伝えるべく、「はさま未来館」では、おはなしボランティア「どんぐり」のメンバーによる読み聞かせの会が開かれています。子どもたちは、いきいきした表情で紙芝居に夢中になっていました。また、陣屋の村歴史民族資料館には、楢根にまつわる品々が展示されています。
さて、楢根は昭和13年に上京し、新聞社に勤務しながら数多くの童話や童謡を出版し、高く評価されるようになりますが、東京大空襲で被災して茫然自失に陥り、創作活動は停滞してしまいます。秋の終わり、柿が枝から落ちて転がっているのを眺めていたところ、アメリカ軍のジープがそれを轢きました。見るも無残な柿の実の中に、光る種を見つけた楢根。それを見て、「種は子どもだ。私たちはこの種を育てなければいけない」と決心し、また童話を書き始めたのです。
「日本童話会」を設立して月刊「童話」を創刊し、童話の普及と同時に次世代を担う作家の育成も手がけます。児童文学の発展に生涯を捧げた楢根でしたが、平成4年、心不全のため84歳で亡くなりました。由布市では彼の功績を知ってほしいと、去年から「ならねっこまつり」を開いています。楢根作品の劇の上演など、注目のイベントですよ。