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2013.02.23放送
大分の偉人 重光葵

 昭和の動乱期に外務大臣を務めた、重光葵。戦争終結時に降伏文書に署名するという大役を任されました。今週は、近代の日本外交に大きな足跡を残した男の生涯に迫ります。

 重光葵は、明治20年、父・直愿(なおまさ)の次男として現在の豊後大野市三重町に生まれ、3歳から杵築中学を卒業するまで杵築市で育ちました。漢学者であった父はとても厳格で、朝は井戸水で体を清め、床の間で教育勅語を暗唱させられたといいます。また父は、日本はこれから世界へ羽ばたくために英語やドイツ語を勉強しなさいと重光に説きました。

 少年時代を過ごした家は現在一般に公開されていて、遺品や写真などが見られます。剣道着や小中学校の時に使った教科書、兄弟で遊んだ百人一首などが展示されています。


 また、国東市安岐町にある「山渓偉人館」には、遺族から提供された品々が多く展示されていて、重光が歩んだ足取りやその人柄を感じることができます。

 東京帝国大学を卒業後、重光は24歳で外交官試験に合格。その後、ドイツへ赴任したのを皮切りに世界各国を飛び回るようになりました。昭和4年、重光は中国・上海駐在の総領事に就任。在任中の昭和7年には、上海事変が勃発。そして、重光にとって「運命の日」となるある事件に遭遇してしまうのです。4月29日、昭和天皇の誕生日の式典が開かれていた際、爆弾テロが発生。右脚に重傷を負いました。中国と日本の停戦を目指して奔走していた最中のことで、その後病床で停戦協定にサインすることになってしまいました。


 事件後、帰国し九州大学で改めて手術を受け、右脚を切断。その後は別府市で療養に専念することとなりました。地元での注目度も高く、その様は新聞でも度々報道されました。

 療養を終えた重光は、異例の抜擢を受け、外務次官に就任。その後もソ連大使やイギリス特命全権大使となるなど、活躍の場を広げていきました。一方、世界情勢は混迷を極め、昭和16年には当時の東条内閣がアメリカに宣戦布告、日本は太平洋戦争へと突入したのです。重光は、外交は話し合いによって平和裏に解決するという信念を持っていて、イギリスなどとギリギリまで交渉を続けていたといいます。

 しかし、戦局は悪化し続け、昭和20年、日本はポツダム宣言の受諾を決め、無条件降伏する道を選びました。その際、アメリカの軍艦ミズーリにおいて降伏文書に署名する大役を任されたのが、重光だったのです。不名誉な役目で引き受け手がいない中、重光は、「屈辱ではなく日本の新しいスタートだ」と思いながら、署名に臨んだそうです。

 その後、重光は戦犯として逮捕され、禁固7年の判決を受けました。昭和26年に刑期を終え、政治家として再び歩み始めます。地元大分から出馬して衆議院議員となり、また外務大臣として活躍。昭和31年には国連総会に全権として出席し、そこで加盟が認められました。そこで重光は「日本は東西の懸け橋となる」という名演説をし、日本の外交の新たな歴史を刻みました。

 その1ヵ月後の昭和32年1月。重光は狭心症のため、69歳でその生涯を閉じました。彼の死を受けて、国連ではインドネシアの代表が黙祷を捧げようと提案。80数カ国が賛同したといいます。


 日本のためを思い、強い使命感を持って外交に臨んだ重光葵。彼の心には常に「戦争反対」の思いがあり、何とか交渉で解決できないかと尽力した人物でした。その信念や人柄を、貴重な資料を通じて感じて頂ければと思います。