
まずは、鉄や銅を溶かすための
反射炉の建設に取り掛かります。反射炉とは、鉄などを溶かす際に出る熱を天井や壁に反射させ、温度を上げてさらに溶解度を上げるというもの。
1855年、試行錯誤を繰り返しながらようやく
宇佐市安心院町の
佐田神社の境内に完成し、いよいよ
大砲鋳造に移ります。境内には、今でも黒くなった耐火レンガが見られます。もちろんこのレンガも惟熊が開発したもの。また、鋳造事業に関わって作成された図面も残っています。
資金援助を受けることなく大砲の鋳造に挑んだ惟熊。彼が作った大砲は、
島原藩などに配備され、幕末の海防強化に大きく貢献することになるのです。
そして、惟熊と同じ時代に、賀来一族の中で異彩を放ったのが、
賀来飛霞(ひか)。
幕末の三大本草学者の一人に数えられる人物です。
本草学とは、現在でいう植物学のようなものですが、当時は薬になる植物を採集して観察記録をつけるという方法で調査をしていました。